昭和46年05月13日 朝の御理解



 御神訓 一、「神はわが本体の親ぞ。信心は親に孝行するも同じこと。」

 天地金乃神と私共の関係というのは、私共の心、又は肉体、その造り主、創造主とでも申しますか、と教祖様は頂いとられます。神様との関わり合いを、だから天地の親神様に対する氏子と頂いとられます。それを色々と説明を頂きますと、成程親子の関係、関わり合いと言う事が良くわかります。その証拠には、私共がおかげを頂きまして、信心が少しわかって参りますと、成程親じゃな、親神様と思われる其のまま実感の中に、おかげが生まれております。
 成程神様じゃな、成程親じゃなと、そういう中からおかげを下さっとる。ですから、それを、実感として天地の親神様と申し上げる。その実感を以て申し上げられる訳であります。天地金乃神様と。ですから私は、お道の信心のまあ根本になるものは、親孝行だと思いますね。いわゆる親の親である、いわゆる世々の親であるとか、そのご先祖に対する敬神の念と申しますかね。
 先祖を敬う心、一番手近な所は私共の両親親である。親に不幸しよう等という子供は、そんなに居るはずはありませんけれども、けれどもそれは期せずして親不孝をしてる人、親孝行をしてる人と言う事になります。例えば子供が体が弱かったり又は悪い事をしたり、世間の御迷惑になる様な事をしたり致しますと、それこそ夜も日もない親は子供の為に歎き、又は悲しみ、生身に鉋をかけるような思いをすると申します。
 ですから親に不幸をしようなどふうには思ってなくても、期せずしてね病気をしたりする事は、やはり親にその様な心配をかける事であり、親に心配をかける。親のいわばそれは生身にかんなをかけると云うのですから。此の様に親不幸と言う事は有りませんよね。親の体にに生身にかんなを掛ける思いがする。そう云う思いがする、それが親不孝、だから、どうでも私どもは、健全な心と健全な肉体を願わせて頂くと云う事は、そのまま親孝行につながるわけである。
 其処で私は、神はわが本体の親ぞと言う。此処では説明がいるのでしょうけれども、それを説明を聞いて分かっただけじゃいかん。やはりおかげを受けて親じゃなあ、親神様じゃなと言う、一つの情感に結ばれる、そう云う所から生まれて来るおかげ、おかげを以てだから悟ると良いのです。金光様の御信心は。である。いわゆる天地金乃神と金光大神様との関わり合いと云う物は、おかげを頂いて、成程親神様じゃなあと、わが本体の親である印、証拠です。おかげを以て実感して行くが良い。
 ですから私は今日はなら「信心する事は親に孝行をするも同じ事である」と言う。孝行すると云う事はです、それはそのまま信心とは言えないにしましても、信心の根本になるものは、親孝行の心です。金光様の御信心は。其処で私どもはね親不孝しようとは思わんけれども、期せずして親不孝の結果になる事の為に、私どもは心配しなければならん。心配しなければならんと言う事は、心配りをしなければならん。
 私が今言うたり思うたり、したり行うたりしている事が、果して親がどう感じるか、どう思うだろうか、その親の思いを少しでもわからして頂く時にです、私は孝子としての親孝行のをさして貰う。その始まりは、親の思いとか心が解かると言う事だと思う。そりゃ親の子供に対する思いは形、言葉に出さんでも、それは千万無量のものがある。あれは吉田松蔭が処刑に遇う時の詠んだという詠にありますよね。
 「親思う心に勝る親心、今日の訪れ 何と聞くらん」自分はまあ自分主義のため命を落すことは厭わない。これが日本国家の本当の良いまあ意味に於いての礎、土台とになる信念を持っておるからこそ、自分の思いに生きる訳ですから、自分が死ぬことはいとわないけど、自分が親に先立つ不孝の罪と同時に、今日の自分がこうなったと聞いたら親は何と言って悲しむであろうかと、自分が思う以上に思うてくれる親を痛めております訳である。また事実そうなんである。
 だからどうしても、私どもが親の願いというか、親の思いと言う物をわからして頂くと言う事。其処から親の思いに添おうとする心配り。信心のだから根本になるものは、そう言う親に孝行したいと言う心。親に心配をかけない、安心をして貰う、同時に喜んで貰うと言う事。それが親孝行。私は此処にお参りをする、特に若い方達ですね、色々お届けに参って来る時に、おかげを頂かねばならない。
 神様に是れなら絶対通うと言う確信を持って聞いて貰う事をね。今言うごと、親に不孝しようと云う物はおらんけどね。親にんなら本気で喜んで貰おう、本気で親孝行しようと云う物はまた実に少ない。親に喜んで貰おう、親に喜んで貰おうと思っておっても、それを積極的に、もう早速その手元の所からというか、早速それを行に表わすという者は少ない。親に喜んで貰うと言う事は、これは天地の道理に合うこと、道理に合うと言うよりは、私は今日は其処ん所、信心の根本だとこう言うておる。
 ですから神様に通わん筈がない、そういう神様に喜んで頂く心。私共の心と神様の心が、通うというか、それが一つのルートとなって、其処からおかげが頂けれると確信するから、「本気でひとつ親孝行する気になりなさい。あなたは親孝行しようと思った事は無かろうけれども、本気で親孝行しようと、もう早速只今から親孝行をする気になりなさい」と言う風に申します。
 それを聞くと、皆改めてやはり考えるらしいですね。親不孝しよらんばってん、早速本気で親孝行しようという気にはなった事がない。ですから信心はね、やはり神様に通う心を作ることがまず大事。まだ神様に通うことは様々ありましょうけれども、これなら誰でもわかると思うから、必ずそれを申します。本気で親に孝行する気になれと。親孝行その心はです、信心の根本、どんなに素晴らしい事が解かっても、どんなに例えば熱烈な修行が出来ても此処をはずしたら。
 他所の信心は知りませんよ。けれども金光様の御信心はです、此処をはずしたらもう根本の所を間違えている様なもの。よく皆さんが申します「本当に神様に心配ばかり掛けて、親先生に御心配ばかり掛けまして」掛けにゃ良いじゃない、自分が改まりゃ良い「御心配ばかりかけて」と御心配かけにゃ良い。掛けんような生き方になりゃ良い心配かけるどころか反対に親に信用される、親に安心して貰えれる貴方になりゃ良い。
 安心して貰うだけじゃない、其の上に、親に喜んで貰えれる自分にならして頂ける、精進したらそう言う事が言えると思うですね。だから本当に神様に御心配ばかり掛けて、御心配のかけ通し、そげな相済みません相済みません。そう言う事では、おかげは受けられん。ですから神様の前にです、これは私がまだ若い時に、善導寺の親先生に、「どうぞ神様の一番の言うならば、忠義者にお取り立て下さい」そういう願いをお取次をして頂いたことがある。神様が一番喜んで下さる私にお取立て下さい。
 だからそういう心を起こしたら良い。それはよし忠義が出来ないにしましても、喜んで貰えないに致しましても。けれども親がどのくらい満足するかわからん。あの子はもう貧乏はしとるけれども、心掛けが何時も親に寄せられておる。何時も親に喜んで貰いたいと言う様な心がが一杯である事がよう解かる。私はそれだけで親は喜ぶと思う。決して良いものを着ろうの、良いものを食べたいの等と言う事は考えないと思う。
 お道の信心の言わば根本になる所ですから、お互いがそこん所をです、本気で親に喜んで貰おうと、本気で親に安心をして貰おうと。あれはもう五、六年も前ですかね。北九州で兄弟が三人で話し合って、親に喜んで貰いたいという話合いをした。それで親に立派な家を建ててやろうと兄弟三人で話合った。さあと言って間に合わんもんじゃから、三人が兄弟グルになってから、トラックでですね、建築材料盗んで回った。北九州だけじゃない、九州一円にかけて、山口県から九州の方へかけて建築現場があるでしょう。
 夜なんか見張りがないですからね。外でがっぱり建築材料を盗んで、それこそ御殿のような家を建てた。なるほど一時は親が本当に喜んだか知りませんけれども、さあそれこそ手錠を掛けられて引かれて行く姿を、親が見た時に、それこそ夜も日もなかろう。それこそ親孝行が孝行にならん、そういう考え違いするような人すらあるですね、世の中にはね。親に喜んで貰いたいの一念が、そう言う事であっては、いよいよいけません。笑い話のような本当の話なのです。
 そこん所を私どもは信心をさして頂いて、いわゆる信心の教えを頂いて、いわゆる教えに基づいた親孝行でなからなければ成らんことは勿論です。教えに基づいた親孝行。其処で只今も申しておりますように、本当の信心が出来ると言う事は、本当に神様の心が解からなければ本当の信心は出来ません。神様の心に添い奉ると言う信心。一番の忠義者になりたいと言うてから、あちらこちらから建築材料を盗んで来て、家建てたっちゃ、一寸忠義のごとあるけれども。
 それは却って反対に、親のいわば生身に鉋をかけさせる様なもの。親孝行でも同じこと。親の心が解からなければ親孝行は出来ません。親が願っておる、親が求めておる、それが通うて来る程しの子供にならなければいけん。私は昨晩ちょっと嬉しい事があった。と云うのはね昨日は福岡支部の御大祭でしたから、八時頃だったでしょうか帰りましたのが、帰りましたら御賽銭箱の前の衝立が夏のに取り替えられてあった。
 夏にそれは取り替える様になっているのですが。私は大体がその一とこ夏の気分に変るなら、何処もそこもずーっと夏の気分に変えてしまわなければならん。そういう私は何と云うか気障なと言うのでしょうかね、もう夏物一掃する。冬の様子を何処にも残さずに、冬物全体を、はあー夏だなと云う様にするのが私は好きなんです。昨日はどう言う事だったでしょう、暑いからでしょう。
 其処だけがまだあんた何時も確かに六月一日から、うちは夏物に何でも彼でも変えよったが、今頃こげなことしてからと私が申したもんですから、末永さんがそれはどうも済みません。それなら変えましょうと、こう言うけれども中々手のいるものですもの。ばらして組立てにゃならん。ですからねわざわざ折角しとるけんで、まあここ十五、六日すれば変えなきゃならんとだからもう良かたい。
 もうそのまま良いと私は思っておりました。所が私の心は十五、六日でも、此処から見とってから、あそこに夏の衝立が立っとるなら気分が悪いです。私は大変神経が細かいですね大体。所が末永さん良くそれを知っている訳です。私の心を親先生がこうだ。それでね「変えましょう」と言うて、私が良かと言うてそこで言うて変えるならね、私が言うたら、まるで顔当てにされた様な気がするです。
 けれども変えましょうと言うただけで変えない。だから変えんでもまあ良いたいと思って、又一時間ばかりして出て来たら、ちゃんと変わっとる。私は今日言う心配りとはそう言う事だと思うですね。そう思うなら変えろと言うてから、いにゃ良かが折角しとるけんでとこう言うでしょう。いいんにゃ変えると言うと私がそう言うたもんじゃから、わざとでん変えるというた風な態度を取られるなら、これは困ったものです。
 形の上では同んなじですけれども、親孝行とはそういう心配りがいるのですよ。そして「もう良か良かほんなら」ち言うけれども、子供はちゃんと私の心を知っている。と言うてその場では変えぬ、後でゆっくり変えておる。出て来て見たらちゃんと変っておる、嬉しいね、そういう時には。私はね親孝行と言う事は心配りと言う事。でも親孝行は出来るが、そういう私は心配りが大事だと思う。
 「もう折角変えたけ良かじゃんの」ち言う子供がおったらね、「変えろちゅうたから折角変えたのに、なら変える」「もうよか」と言うたっちゃ変える。然も目の前でこうこう言うて変えるなら、「もうよかたい折角変えたなら」「いいや変える」ちゅうて言うたなら喧嘩腰になる。其処んとこ、黙って自分で受けておいて、本当は親は変える方を好いとると解かっとるのだから、その場で変えずに、私がおらんことなってちゃんと変えとる。私は心配りとは、そう言う事だと思うね。
 それが親孝行の始まりなのだから、あそこんにきは面倒んごとして変ゆる。これは一時が万事にする人がありますもんね。そんならこうと、それはかえって親の心を傷付ける様な事ですから、親孝行にはならんです。親の心がだから解からなければ親孝行が出来ない事が解かります。神様の心が解からなければ、本当の神信心は出来ません。それこそ、何時もかつも御心配ばかり掛けてと言う事になります。
 この神様はね、例えば願うとか、頼むとかいう事が心配をなさるのじゃない。むしろ願わん方が、頼まん方が心配し御座る。この神様は。だから神様の心が解からんと、こげな事ばお願して、神様に心配かけてはならん。親先生に心配かけてはならんと云う様な、もう間違った考え方をしてはならぬ。神様は本当は、頼んで呉れれば、願って呉れればと思うておられるのですから。問題はその願う内容なのです。
 その願う心の状態なのです、神様に喜んで頂く御願いの仕方がある訳なんです。何時も申します。どうぞ億万長者にして下さいと云う願いでも良いのです。健康にならして下さい、どうぞと言うて願うて良いのです。けれどもその健康が、その億万長者にならして頂いた暁にはです、本当に神様に喜んで頂くようなこの体を以て、その財なら財を以て、お役に立たせて下さいという。
 その祈りが、願いがそこに在るなら、どんな願いでも良いことになるでしょうが。自分が栄耀栄華とするために財を下さいと言うのと違う。だた目が違う。昨晩帰らして頂いたら、此処へ、現金封筒の手紙が来ておりました。それをお届けさして頂いて読ませて頂いたら、神様とはこういう方だと言う事がね、わかる内容の手紙ですから、一寸聞いて頂きましょう。「親先生若葉萌え出る好い季節となりました。
 日頃は御無沙汰ばかり致してまして申し訳御座いません。先日は御本部で御大祭に御引寄せ頂き、親先生にお会い出来て本当に嬉しく思いました。何時もいつもお取次を御願いさせて頂きまして、深く感謝して居ります。この度も身に余る良縁のお繰合わせを頂きまして心から御礼を申し上げます。初めてお話がありましてよりとんとん拍子に事を運ばせて頂き、愈々後十日で長女を他家に嫁がせて頂く事になりました。
 適齢期の娘を抱えておりますと、何かにせき立てられている様な日々で、それでも月日の流れる、月日の流れは何とも早く、二十歳、二十一歳、二十二歳と容赦なく過ぎて行きました。只ひたすらに商売の方をと希望して、あちこちに頼んでおりましたのに、話の来るのは皆サラリーマンの方ばかりです。業を煮やしてサラリーマンでも良いじゃないのと、娘に奨めても、何度考えてもやはり商売の方が良いと申します。
 お付き合いする相手の一人もなく、休日毎に身の回りの雑用とお稽古事で時間を過ごす娘を見て、いかに女が多いとは言え、一人ぐらいこの娘を見る目を持つ、男性がいても良さそうなものと心の中で呟く私でした。しかし幾ら一心に拝み願い、頼んで見ても思う程に、願いは適えられず、又年も暮れて行きました。此処まで来ますと、どうと腹が据わり一切をお神様にお任せしよう、時期がどうのこうのと申しません。
 お神様の目から見られて一番適したこの娘の内にあるものが、生かされる様な所へどうぞと、心を広く大きくさせて待ちました。ところが突然お道の方から交際を申込まれまして、二度三度とお話をしている内に、何も彼もが希望にピッタリ、いえそれ以上の好い条件なので、本人も家族も乗り気になって、お話はするするとまとまり、結納も入り、今は式を待つばかりとならして頂きました。
 今振り返って見ますと、親神様の御心も解らず、我武者羅に、どうぞどうぞと突き進んでいた、自分を反省致します。お神様としましては、まだまだ時期ではないぞ。もう少し待てとの事に違いなかったのです。おかげ様で、家の改装で体面も良くなり、来年から商品値上げによって、経済面も豊かになり、その上で一年中で一番時候の良い、五月に式を挙げさせて頂くこの嬉しさ、何も彼もが分に過ぎる程の、結構なおかげを頂けたのが、不思議に思います。
 嫁入り支度も嫁というなら讃岐から娶れと、四国ですね讃岐から娶れと言われる位念の入った支度をする土地柄と、前々から聞いて実は怖じて、四国は大変だからなるべく遠い所で簡素に実のある結婚をさせたい。例えそれが遠い東京でも九州でもと所が、話が具体化して来ましたら、先方より土地柄色々としきたりがあるけれども、よそがああするから家もこうすると云う様な固苦しく考えなくってあっさり行きましょうや。
 タンスの事や神様に申し訳ない事だから、必要な時期が来たら送るという程度に軽く考えて下さい。と大変行き届いた事を聞きまして恐縮してしまいました。総てお神様のお声として素直に受けまして、立派とまでは行きませんがまあまあの支度を苦しむ事もなく整えさせて頂き、何処からこの様にころころとお金が廻って来るかと不思議な程の位です。娘も余りいらんよ、もういいよと却ってブレーキを掛けられる有様です。
 御無礼のない支度を娘も恥をかかん様にと心掛けて参りました。万事万端のお繰合わせ、何と御礼の申して良いやらわかりません。心より御礼の御祈念をさして頂いてあります。この上は来る十七日荷物を出させて頂き、二十日には玉津嶋清という方ですね、と川上千津子の結婚式を挙げさして頂くに当り、どうぞ御健康の上にも、又親戚御一同御出席につきましても万事滞りなく、万端のお繰合わせ伏してお願い致します。
 親先生本当に有難うございました。今後も尚一層よろしくお願い申し上げます。是にて失礼いたします。若先生始め教会の諸先生方にもよろしく御伝え下さいませ。十三日会の御初穂を同封させて頂きます」とあります。これを見てから解かるでしょうが、親神様の心もわからずに、どうぞどうぞではいかんと言う事の、それに書いてありますね。そしてもう神様がこの娘に一番適した人を見立てて下さる。おかげを下さると言う事だけを願うようになりました。親の心が解っての願いと言う事が解かりましょう。
 そしたら第一自分の家の改築も出来てしもうた。体面もこれで出来た。どこから廻って来るかわからん位に金銭のお繰合わせも頂いたと書いてある。こちらの思い以上、願い以上に万事万端の上にお繰合わせ頂いておると言う事。だから全てがこの様なおかげになって行かんならんのです。所がですね私ども、どんなに頼んでも願ってもよいけれども、神様の心をわからず。神様の心に適う、通う、願いの中心のすべてはね、おかげにならんことが解かるでしょう。
 まあこの手紙の中から、今日の御理解の「神はわが本体の親ぞ」という説明は致しませんでしたが、「信心は親に孝行するも同じことぞ」と言う所に行きゃわかって頂いたと思うです。ですから親孝行せにゃおられんと、止むに止まれん心こそが信心の根本だと。そこから成程親じゃなあ、親神様じゃなあと言う、親神様はもう説明を聞かんでも、実感の上で、体験の上から、それが頂かれ、感じられる様に段々なって来るおかげを頂きたいと思います。
   どうぞ。